2008年02月08日

隠岐の島

■プライベートな話■

 我が郷里、「隠岐の島」が最近新聞紙上を賑わしている、 と云うほど大げさではないが時々記事になっている。良きにつけ悪しけにつけ郷里の事は気になるもの。

 その1、 隠岐水産高校のこと。水産高校を卒業しても船に乗れない、 水産関係の仕事にも就けない。男の仕事と意気込んで入学した水高生の夢が叶えられない・・。 それを嘆く高梨校長(私の親戚) の話しが記事になっていた。それもそのはず、今の商船は、士官以外はオール外国人(東南アジア人)で締められている。

 その2、 知夫村のこと。知夫村は島前に位置する一つの小さな島で、 人口800人弱という過疎村である。ところが近年、狸が異常繁殖、何とその数2千匹、人間よりも遥かに多くなっているという。それ故、 狸は大威張りで我がもの顔で農作物を食い漁り、この世の春を謳歌しているらしい。ところが反対に、村民は大変な被害を被り、 村長以下全島民が頭をつき合わせて、その対策を練ったとのこと。 結論は「駆除」、 ところがその事を知った動物愛護団体など全国の心優しい博愛者から「駆除などもってのほか・・」と非難ごうごう、1日2・ 3本しか鳴らなかった役場の電話が鳴りぱなし状態と相成り、村長以下島民皆がまた頭を抱えた。結論は 「防護柵で狸と人間の住み分けをし共存を図る」となったとか。 狸村の村会がどう決まったかは報道されていないが何となく落ち着くところに落ち着いた感じではある。しかし、小生は可也心配している、 そうは問屋が卸すまいと・・・。

 その3、 西ノ島(私の生まれた里)のこと。 西ノ島の孤島に妖怪、ゲゲゲの鬼太郎の、 「ネズミ男」が住んでいるとの報道。岩肌が「ネズミ男」そっくりで、話題をよんでいるらしい。産みの親の「水木しげる」も、 「これぞまさにねずみ男」と大喜びとか・・。西ノ島にまた一つ観光名所が増えそう・・。何とも喜ばしいことである。

 

 

 

投稿者 ks110 : 15:52

2008年02月01日

週末は映画

■プライベートな話■

  最近、邦画が面白い。武士の一分続3丁目の夕日母べい、何れもほろっときて心温まる、何となく余韻の残る鑑賞感であった。明日は、 歓喜の歌、アース、シルク、どれにしようかな?、先週は、一挙に2本観た。 母べいと銀色のシーズン、時間調整の積もりで観た銀色のシーズンも中々良かった。 今週も2本立てで行こうかな・・と云う感じ。

 映画は夫婦で観るに限る。2時間じっくり楽しんで2人で2千円、しかも共通の話題ができ夕食も和む。一石二鳥である。 時間調整が難しいができるだけ週末は映画デーにしようと思っている。

投稿者 ks110 : 11:58

2007年08月22日

故郷のお盆行事

■プライベートな話■

 今年も望郷の念にかられ、8月14・15・16と2泊3日で里帰り。私の故郷は日本海の孤島、「隠岐之島」である。過去何回かこのブログでもふれたが、隠岐之島は、本土(島根半島)から約60キロの日本海に浮かぶ孤島で、往時は、日本海の 「風待ち港」として大いに栄えた所であり、江戸から明治にかけては今より遥かに賑わっていた所である。 隠岐之島は大きくは、島前・島後の二つからなり、島前は、 西ノ島・海士島・知夫里島の三つからなる。で、 私の出身は西ノ島である。 西ノ島というのは風光明媚で知られる隠岐之島の中に在っても一際美しい「国賀海岸」を控える、それはそれは美しい島である。人口は約4,500人で16の地区からなり、 小生が生まれ育ったのは戸数60戸程の「大山」と呼ばれる地区である。この大山地区がまた素晴らしい・・。何が素晴らしいか・・?、と言われても一寸困るが一言で云えば、 「何も無いのが素晴らしい」。

 そんな素晴らしい大山地区で生涯を過ごした義姉が昨年暮れに他界した。 従って今年は「初盆」、望郷の念もさることながら初盆は帰らなければならない。

 そこで、故郷のお盆初盆行事についてふれてみる事にする。

 お盆の行事は宗教行事(仏教)であり、全国そう大きくは違わないと思うが、隠岐では今でも14日・15日の2日間、 お墓の周囲に綱を張り、その綱に旗をつける。旗というのは、七夕の短冊を大きくした感じのもので色紙に切り込みを入れ、 「南無阿弥陀仏」「南無大師遍照金剛」と墨書きしたものである。 この「はた」と呼ばれる短冊を、自分の家の墓は勿論、親戚縁者の墓につけてまわるのである。それも夕方5時過ぎから7時位までの間にまわる。 従って、僅か60戸の小さな地区ではあるが、この2日間の夕方のお墓だけは大変な混雑となる。しかも年に一度の里帰り、 100人が100人顔見知りであり、1・2歩あるいては「今日は・・・」「帰らしゃんしたかの・・・」 等と声を掛け合い挨拶をしなければならない。これはこれで楽しいと云うか大変と云うか・・・故郷ならでは一コマであり、 盆行事の一つとも云える光景である。また、初盆の家には、僅かばかりの御香料を持ってお参りに行く。 そこでまた僅かばかりの時間でも家に上がって挨拶をする、これも中々大変である。僅か60戸の小さな地区で、何と今年初盆の家が6軒、 全体の10%である。如何に高齢化が進んでいるかの証であり、初盆が6軒、出産はゼロ、これもまた大変な事である。

 翌16日の朝は、初盆の家は全長1メートル強の帆船(精霊船・ シャーラブネ)を造り、この船に野菜や果物など仏壇に供えてあった物を載せ海に流すのである。 同じ西ノ島町でもこの行事は地区によって違い、大山は初盆の家が個別に船を造って流すが、他の地区の多くは、 小学校高学年から中学生が中心になり、大型の精霊船(藁舟)を造って流す。 これは子供にとっては大変な行事であり、夏休みの約半分はこの船造り作業にとられる。昔は集会場に泊り込みで行い、 そこでは先輩後輩のけじめなど色んな意味での勉強があった様である。この精霊船(藁舟)は大きい船だと20人ほどの大人や子供が乗れる物で、 しかも12時間くらいは海に浮かび続けるものでなければならない。

 精霊船に乗って先祖の霊が帰って行くと、お盆行事は一通り終わる。そこで、当日夕方の船に乗り帰阪、 我が家に着いたのは深夜12時をまわっていた。かくして小生の短い夏休みは終ったのである。

 15日朝4時45分、大山の家(兄の家)の2階から携帯で撮影、大山湾の日の出前。

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15日朝5時00分、大山の家(兄の家)の2階から携帯で撮影、大山湾の日の出。

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 地区の小中学生が中心になって造る大型の精霊船。帆はお墓にあげるハタでつくられている。 


     

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2007年07月10日

もう一度会いたい

■プライベートな話■

 何となく意味深なタイトル。但し、私の内訳話を書こうというのではない・・・残念。

 これは、私の友人、佐藤あつ子さんが今回出版した本の題名である。彼女は、知る人ぞ知る、 知らない人はサッパリ知らない、そんな有名人である。調査業界の中でもある意味異色。難関国立大卒の才女であるが、どう云う訳か、 この調査業会に身をおいている、それも可也古い(歳は若いが・・・)。彼女の話によると、元々は 「初恋の人にもう一度会いたい」、その思いが嵩じ、 初恋の人を捜し始めたのがそのまま仕事に成った云う事らしい。従って、会社の名前も、そのものズバリ、「?初恋の人探します社」である。

 その彼女が今回2作目の本を書いた。初版は、社名のとおり「初恋の人、 探します」で、私の親友、東田俊康が書いた「探偵がゆく」と同じ出版社、 遊出版によるものであったが今回は「草思社」からの出版である。それも自費出版ではなく、 作家として依頼があったからである。

 先週、彼女からサインキスマーク付の素敵な本が贈られてきた。早速読み始めたが初版とは一味違い、中々の出来である。 少し大人になったあっちゃん(彼女の愛称)の姿が見え隠れする。少し大きくなった、ではなく大人になった。決して間違ってはいけません。

 とにかく感心するのは、彼女、御歳うん才にして昨年より法科大学院に学んでいる。 会社経営をしながら大学院に学び、その上本の出版である。とんでもない忙しさだと思うが、業界活動にも顔を出してくれる。そんな中にあって、 歳も身体も成長しているのである。 まさしく女と靴下である(少し古すぎるか・・・)。

 私には今ひそかに思っている事がある。あっちゃんの司法試験合格祝い・・・、 日本丸での日本一週旅行するか、飛鳥での世界一周旅行にするか。

投稿者 ks110 : 20:23 | コメント (0) | トラックバック

2007年06月18日

父の日

■プライベートな話■

 六月の第三日曜日は「父の日」。 何時の頃に制定されたのか余り記憶にないが、私が子供の頃は無かったように思う。ただ、「母の日」というのは何故か鮮明に覚えている。小学生の頃、青ばなをたらし、 それを学生服の袖でぬぐう為袖口はカチカチで、しかも光っていた。そんな田舎の悪ガキが、何故か「母の日」には、造花のカーネーションを、 その学生服の胸に飾り、「お母さんありがとう」と言ったものである。 食べるものもろくに無かった時代、プレゼントなどは何もしなかったと思うが、その時の母のとっておきの笑顔だけは今もはっきりと覚えている。 多分先生が強制的にさせていたと思うが、なんとも粋な計らいである。ところが父の日はなかった。今から考えると不思議であるが、 当事は何も思わなかった。

 それが有り難いことに自分が父親になった頃には父の日ができていた。子供が小さかった頃、「父の日」はプレゼントの山であった。3人の子供がそれぞれに「肩叩き券、昼休み券、お買い物券」など、一杯作ってくれた。1年で使いきれないほどあった。ところが、 中学高校と成長するに従って、何時の間にか「母の日」はあっても 「父の日」は無くなった。妻が、可哀想にと思ってか、 生活必需品をスーパーの袋ごとプレゼントとしてくれる事はあったが、子供は全く眼中に無い感じであった。

 ところが、昨日は娘から素敵なプレゼントがあった。セリーヌのネクタイ(はじめSELINEのネクタイと書いてしまい、娘に「綴り間違えてる。ニセモノ贈ったみたいやん!」と叱られた)である。今朝そのネクタイをしめ、 颯爽と出勤した。誰か何か言ってくれないかな・・・?などと思いながら。ところが誰も何も言ってくれない・・・トホホ。

エエーイそれならブログで発表するしかない。そうー、今日のネクタイは娘のプレゼントなのだ・・・。

投稿者 ks110 : 18:20 | コメント (0) | トラックバック

2007年06月15日

天風会(香里天風会)

■プライベートな話■

天風会の話し。

 私が所属する「香里天風会」は、毎年7月最終週の金、土、 日の3日間を、「夏期特別研修会」とし、 昭和46年以降35年間の長きに亙って開催してきた。ところが、香里園駅東地区の再開発にかかり、今年立退きを余儀なくされている。 駅前の素晴らしい場所で、素足に上半身裸でできる修錬会も今年が最後である。全国各地に天風会の道場はあるが、 素足に短パン一つで修錬ができるのは香里をおいて外にはない。ところがその香里も今年が最後。正直残念でならない。

 そこで、今年はパンフレットに以下の「お誘い文」をつけて参加募集を行うことにした。

 初めての方、体調の優れない方、1人で悩んでおられる方、ストレスをためやすい方、寧ろそんな方の参加をお待ちしております。 一度参加してみませんか。連絡先、香里天風会事務局、電話072-832-4585(川崎)

香里天風会「夏期特別研修会」 のお誘い

 初夏の香りと共に今年も香里天風会夏期特別研修会」 の季節が近づいてまいりました。心身統一道を志す皆様方には、 日々変わる事無く積極心を持って明るく元気にお過ごしのこととお喜び申し上げます。
 香里天風会は、昭和46年支部設立以来、香里園駅前の藤田邸の一部を道場とし芝生の庭を運動場とし、正月3が日以外の毎日曜、 日曜行修会を開催し、猛暑の7月末には欠かすこと無く夏期特別研修会を重ね、修練に励んで参りました。 特に、ここ数年は地区外の天風道を志す皆様方にも広く呼びかけをし、多くの方にご参加頂き、真剣に楽しく行修することができました。
 ところが、その藤田邸(道場)が香里園駅東地区市街地再開発に伴い近く立退かざるを得ない状況となりました。 この再開発は権利変換方式を採用していること、及び、藤田先生がご高齢ということもあり、現況将来的な見通しが立てにくく、 今の環境のもとで夏期特別研修会が開催できるのは今年限りと成りました。場所、 環境は変わっても香里天風会の活動は何ら変えることなく継続維持して行く所存ではありますが、 藤田邸に於ける昔乍らの香里独特の手作り修錬会を惜しむ声が多く聞かれるのも事実です。従いまして、今年の夏期特別研修会は、 藤田邸最後の修錬会に相応しいものにしたく、研修会実行委員会のメンバー全員が強く信念しております。
 香里に縁を持たれた皆様方と一緒に成って、今年の夏期特別研修会を盛り上げ、 そして香里天風会の為に全力を尽くして頂いた藤田先生のご恩にも報いたく思っておりますので、ご協力の程宜しくお願い申し上げます。
1人でも多くの方をお誘い合わせの上、ご参加頂けますよう心よりお願い申し上げます。
                                                                                          

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2007年05月28日

小父さんの話、NO2

■プライベートな話■

 早く「小父さんの話、NO2]を書かなくてはと思いつつ今日に至ってしまった。というのも、先週は東京での総会及び研修会が重なり、 殆ど東京に居た為に時間が取れなかったが故である。

 小説「中国任侠伝」の話であるが、中国の春秋時代(戦国時代)、孟嘗君と云う宰相が居た。 彼は5月5日生まれであった事から大変な苦労を強いられて育った(当時中国では、5月5日生まれの子は親を喰うとされ、 誕生と同時に殺される運命にあったという)。その為、周囲に対する気使いは人一倍濃やかで、部下は勿論、食客にも非常に慕われていた。当時、 食客だけで3千人も居たというが、ある事で国王の不興を買い、宰相の地位を剥奪された。すると、3千人の食客は、 蜘蛛の子を散らすように孟嘗君のもとを去っていった。残ったのはただ1人、無駄飯喰いの食客であった。

 ところが、孟嘗君。その後色々あって、再度、宰相の地位に復帰がかなった。そこで、1人残っていた無駄飯食いの食客が 「昔の食客を迎えよう・・」という。すると、孟嘗君、「とんでもない、あんな薄情な士など顔もみたくない。 私は客を遇することに落度は無かったと信じている。ところが私がいったん失脚すると、彼等はことごとく私に背を向けて去り、 誰ひとり振りかえってみるものもいなかった。再び私の前に現れるようなことがあったら、そやつの顔に唾を吐きかけ、 大いにはずかしめてやりたい・・・」という。そこで、無駄飯食い「そうではありません。あなたの言葉は間違っています。 物には必ずそうなる筋があり、事についても同じです。たとえば、生きている者が必ず死ぬようなことです。富貴になれば士が集まり、 卑賤になれば友も散じるのも、とうぜんのことでしょう。朝と晩と、市場の混み方が違いますが、人々が朝を好み、晩を憎むのではありません。 市場には朝にしか商品がないからであります。それと同じで、あなたが地位を失って、賓客が皆去ったのは、もうあたりまえのことです。 そんなことで士を怨み、いたずらに賓客の路を絶ってはなりません。どうか客を遇すること、もとのとおりになさいませ」と諭した。

その言葉をきいた孟嘗君、「私が愚かであった。つつしんでそのようにしよう・・・」と、云い大声で笑った。 その笑い声で心のわだかまりをすべて吹き消そうとでもするように。

 教訓的な面白い話であった。

投稿者 ks110 : 18:41 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月18日

小父さんの話

■プライベートな話■

 今週のはじめ、某小父さんが突然会社に来た。1階の受付?から事務員に連絡したらしく、私にメモがまわって来た、 「八尾のおっちゃん、とおっしゃる方が1階にお見えですが・・・」とある。なに・・「直ぐにお通しして・・!!」。 少し疲れ気味のチョッキによれよれの帽子を被り、ニヤッと独特の笑みを浮かべて入ってきた。応接に腰をかけるやいなやタバコを口にくわえる・ ・・、ムム・・私の部屋は禁煙・・、所が全く意に介している様子がない。人生の大先輩、おん歳80才である。禁煙など通用するはずが無い、 直ぐに炊事場から灰皿を持って来た。タバコは昔ながらのピースである。

 実はこの小父さん、そこそこのお金持ちでゆったりとした暮らし向きの人である。ところが、お金を使うのは嫌いなほう・・、 それも可也徹底している。普通の人は「高価な物を自慢する」が、小父さんは「如何に安く買ったかを自慢する」、 とにかく物を安く買うのが大好きである。一般に云うダダのケチとは違い、お金は使う時は使う、無駄使いもする。 所が他と比較検討して安くなければ絶対にダメ、「松谷さんこれどや・・、君にと思ってこうてきたのだが・・」、今までにシャツやジャンバー、 ネクタイなど色々と頂いたが、1着百円のものは珍しい、たいがいは五十円で仕入れたものである。

 で、今回も同様。「松谷さん、これ面白いで・・、5冊の単行本をさしだす」、それも相当の古本、表紙は勿論中も色あせ赤茶けており、 少し目が弱くなった小生に取ってはチョット辛い本である。多分間違いなく10円で仕入れた本である。「何時もすみません・・ 有り難うございます」、深々と頭を下げ、5冊の本を押戴いた、トホホ・・・。

 小父さんは中国語が好きで、今も中国語の学校に週一で通っている。80歳になっても向学心は全く衰えていない、 漢字一つに大変な興味を示す、従って、エッと思うような話がちょくちょく聞ける。普通の人と少し違っているが、 それ故に独特の味があり面白い。「松谷さん・・、 この陳舜臣中国任侠伝、これは面白い・・日本の講談やな・・ これは・・」。そこで薦められるままに早速読んでみた、確かに物語は講談調で文の切れも良く面白い。その一節に、 一寸興味深い内容の話があったので紹介したいと思う・・。

 ところが、時間がない・・。次の用事があるので、内容の紹介は次回にゆずらしてもらう事にする。あしからず・・・。

 

投稿者 ks110 : 18:10 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月07日

蒼き狼と不思議な出会い

■プライベートな話■

 最近映画いはまっている。20代の頃はたまに観に行くことはあったが、30の声を聞いて以後はとんとご無沙汰で、 映画と云うものは頭の中に無かった。ところが不思議なもの、「焼けぼっくりに火がついた」ではないが、 昨年妻に誘われ嫌々ながら京都の映画館に足を向けたのが切っ掛けで、以後やみつきになった。

 丁度そのころ、ワーカー・マイカル・シネマ大日とシネックス枚方が相次いでオープン。何れも自宅から30分そこそこの所に在り、 大小9つのスクリーンをようし、一箇所で映画のはしごができるシステム。しかも夫婦割 (夫婦の1人が50歳超の場合2人で行くと割引になるシステム)を使えば一人千円で観れる。これを利用しない手はない。以来、 週末は暇さえあれば映画館に通っている。

 先週の土曜日は、今話題の「蒼き狼」の封切であった。安倍首相も夫婦で観たという。早速妻と二人で出掛けたのはいうまでもない。 早々にセンター後方の一番良い席を陣取りゆったりと座っていると、横の通路を、 小太りのおっさんと奥さんとおぼしき可愛らしい女性との二人連れが通り過ぎ、直ぐ後ろの席に腰掛けた。アレッ、何処か観たことのある・・、 まさか・・、それにしても・・。そんな思いでこそっと後ろを振り向く、おっさんと目が合った、お互い見つめ合う目と目、ムムッ、 「失礼ですが、○○では?」「ンッ・・松谷か!!」。何と不思議な事があるものだ・・。そのおっさん、日本海の孤島、 隠岐の島で中学高校と6年間、机を並べていた同級生であった。しかもお互い夫婦連れ、「この世に起こることに偶然はない、全て必然である」 という説もあるが、これは偶然としか言いようがない。とにかくビックリした。

 また、「蒼き狼」にも感動した。ストーリーもさることながらスケールの大きさとモンゴルの風景が素晴らしかった。映画終了後、 旧交を温めたのはいうまでも無い。

 

投稿者 ks110 : 12:17 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月13日

同窓会

■プライベートな話■

 この土、日、月の3連休は、我が母校、黒木中学校の同窓会であった。

 小生は、昭和38年3月島根県隠岐郡西ノ島町立黒木中学校卒業。そこで、ごく単純に38年の卒業生の集まりを「三八会」と名づけ、 42歳の厄年以後、5年に1度同窓会を開催してきた。今年は、61歳の本厄、所謂「還暦」である。そこで、 何時にも増して大々的な同窓会となった。

 会場は、京都の奥座敷、湯の花温泉である。新大阪駅を集合場所とし、バスにて一斉に湯の花に乗り込もうとの企画。 出身地の隠岐ノ島は勿論、東京、名古屋、大阪、兵庫、四国、島根と各地から三々五々集まり、 午後2時の集合時間を待たずに大型観光バスは超満員。後は何時もの通りワイガヤで、幹事の話など全く聞く者はいない。 それでもバスはキッチリ目的地に着いてくれる、唯ただ運転手さんに感謝。

 夜の宴会も同様。乾杯の後、1分間スピーチが予定されていたが皆が耳を傾けていたのは最初2?3人の話だけ。 後は誰が喋っているのかさえよく判らない、彼方此方で車座ができ勝手に盛り上がっている。情けないと云うか何というか・・、 無駄に歳を重ねただけで一人も成長している奴は居ない。

 社会的地位だけは其れなりに恰好を付けており、大学教授も居れば社長も居る、学校長も居れば生徒(夜間高校)も居る、 主婦も居れば後家さんも居る、ヤクザはいないが漁師は居る。そういえば田舎の教育長も居た・・・。しかし、何れも名刺の肩書きだけで、 ハートは皆中学生のまま。

 当たり前のくどのまえ、宴席は2次会・3次会と続く。なかでも楽しかったのが2次会のカラオケ。 喉自慢はキョウビのこと五万と居るが、ふと横を見ると大きなハンカチを雑巾代わりに、音楽に合わせながら壁拭きをしているのがいる。 60歳にもなったオッサンが何とも言えないおかし味を持った恥じらい顔で、腰をくねらしながら壁に張り付いて踊っている・・、 今こうしてブログを書きながらも、つい噴出してしまいそうになる。しかも、そのお人が普段は鬱病では・・、 と心配になるほど大人しく寡黙であるが故になおさらである。実に楽しかった・・、久方ぶりに笑いながら涙を拭いた。

 翌日は京都観光。嵐山、金閣寺と巡り、平安神宮で厄除けの神事(正式参拝)を行い、南禅寺の湯豆腐に舌鼓をうち、 後は京都駅と新大阪駅で一部解散、残る吾等は大阪のど真ん中にホテルをとり、近くの中国料理店で2日目の宴席。飲みすぎ食べすぎ喋り過ぎ、 疲労困憊した老体に鞭打って、またもや何時果てるとも判らない宴会が始まった。中には、てふてふとり今日は何所まで行ったやら・・、 帰ってこぬ連中もいたと云う。

 翌朝早くにはお迎えのダッジがホテル前に到着。二日酔いのボーとした頭で、9時9分にはテイーショット。可愛いキャデイーが 「ナイスチョット・・」と横を向く。何とも忙しくて楽しい2泊3日の還暦同窓会であった。

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2007年02月06日

節分

■プライベートな話■

 2月3日節分。暦の上では立春ということですが日本経済と同じで全く実感はない。未だまだ寒さには気をつけましょう。

 ところで節分と言えば豆まき。豆まきと言えば成田山。我が家はその成田山明王院の直ぐ西側に所在する。従って、 節分は当然成田山へという事になるが、勤め人の悲しさで節分が休日に重ならないとそうは行かない。 ところが今年は土曜日が節分で小生も61歳の本役。早速妻と二人で成田さんに向った。豆まきは3回行われ、朝一番が10時30分開始の予定。 10時には行ったが既に数千人の人で境内は超満員であった。

 成田山明王院の豆まきは、例年NHK朝の連ドラの役者が顔を揃えることで知られているが、 その他にもお笑い系の芸能人や政財界の年男、京都の芸子さん達がズラッと顔を揃える。紋付袴に身をかためた年男、 年女が舞台狭しと並んだ姿は壮観である。

 10時半過ぎ、フウちゃんこと大田房江大阪府知事の挨拶の後、いっせいに豆まきが始まった。 押すなおすなの揉みくちゃの中で豆をゲットするのは容易な事ではない。 成田山の豆は皮付きの落花生であるが落ちたのを拾うのは最も危険な行為。従って、手お伸ばして直接ゲットしるしかないがこれは難しい、 そこでベテランは風呂敷や紙袋を頭上に掲げゲットする。小生は、そんな事とは露知らず手ぶらである、ところが流石は我妻、 キッチリと紙袋を持参していた。成果は、歳の数には少し足らなかったが、そこそこ満足できるものであった。

 例年、我が家でも豆まきは必ずしている。但し、今年は妻と二人だけの一寸淋しい豆まきであった。 子供が未だ小さかった頃は節分の日は大変であった。会社帰り、玄関を開けるや否や鬼の面を被らされ、家の周りを走り回らされ、 豆を投げつけられたものである。大変ではあるが、それなりに楽しく賑やかな豆まきであった。しかし、今では全く相手にしても貰えず、 「お父さん、恥ずかしいから小さな声でして・・」と、文句を言われるのがおちである。

 話は変わるが、成田山の豆まきは「福はうち!」のみで、「鬼はそと!」は言わない。何故なら、成田山の境内に鬼は居ないから、とか? 。それはそれとして、「福はうち」「鬼はそと」の掛け声は、心の鬼と福ではないかと私は思っている。すなわち、自分の心の中にある、「怒り、 怖れ、悲しみ、煩悶、妬み、嫉妬」などの消極心を「鬼」とし、「親切、正直、喜び、感謝、平和、思いやり」 など人間誰しもが生まれながらに持っている真心を「福」として、「鬼はそと、福はうち」と大声を出し、 幸せな一年を願うのではないかと思っている。

 

 

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2006年12月18日

天風会(香里天風会)

■プライベートな話■

昨日は、香里天風会越年会であった。 天風会では忘年会とは言わず越年会と称しており、毎年12月の第三土曜日を香里天風会の越年会に当てている。

朝9時から通常の日曜行修を行い、11時から越年行事に入り、一部が天風先生の講演テープを聴く会、2部が鍋を囲んでの懇親会である。

講演テープは、月始めの月例会では通常時間の関係で聞き難い長いテープを聴くようにしており、2時間25分の相当長いものであった。

題は「十牛訓解明」。十牛訓十牛図は中国の宗代に書かれた禅の修行過程を牛に例え説明した解説図であり、尋牛、 見跡、見牛、得牛、牧牛、騎牛帰家、忘牛存人、人牛倶忘、返本還源、入テン垂手と十の図と説明からなっており、 それを天風会流に解説したお話で、昭和40年・天風先生が90歳の時に京都の補正行修会で講演したものである。

内容もさることながらとても90歳とは思えない気力溢れる話しぶりで、 2時間半にも及ぶ長いテープであったが時間を全く感じさせない素晴らしいものであった。

二部はガラッと指向を変え、香里園駅前のちゃんこ屋で、先ほど聴いた先生の教えなどコロッと忘れ、 ちゃんこ鍋と焼酎に舌づつみをうっていた。出来の悪い子(弟子)ほど可愛い・・・?、と、苦笑しながら許してくれる事を信じて・・。

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2006年11月21日

我が家のテレビ

■プライベートな話■

我が家のテレビは2代目である。10数年前に初代の18インチから跡目相続して以来、 キッチンと居間の間にドデカイ顔で主の如く鎮座している。

ところがよる歳波には勝てず3ヶ月程前からかなり体力が弱り、ボケ症状も出てきて中々いうことをきかない。 スイッチを入れて暫くすると先ず横に一線光を成す、それから徐々に波のような波紋が広がり微かに画面らしきものが見えてくる。 寝起きが良い時はそのまま鮮明な画面になり声も発するが、少し機嫌が悪いと下半分だけがまともで上半分は3倍位に間延びしている。 各局の美人アナもかたなしである。

そこで目覚まし代わりに頭をポンと軽く叩く、するとビックリして正気になる。そんな状態が1ヶ月ほど続いていたが、 それ以後急激にボケが進み、最近では縦、横、斜め、と強烈なパンチを喰らわせないとダメ。 一端正気になっていても一寸した事でまたボケ症状がでる。

そこで可哀想には思うがその度毎に強烈な刺激を与え叱咤激励ししなければならない。そんな姿をみるに耐えないのか、子供は、 「いい加減にお役を解き3代目をたてろ」と矢の催促である。ところが10数年も生活を共にして来た戦友である、 愛着があって中々その気になれない。

何とか今年いっぱいはもたせたいと願っている今日この頃である。

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2006年10月25日

二人旅NO2

■プライベートな話■

翌日曜日は早々に朝食を済ませ、AM9時には熊野本宮の大鳥居(日本一)の下に立っていた。そこを出発点に本宮にお参りし、 そのまま往復約8キロの熊野古道を歩くことにした。鬱蒼とした杉林の中をただただ黙々と歩く。聞こえるのは野鳥と虫の声だけ、 都会の喧騒を忘れ、古代人のごとく自然の中に遊んだ2時間半であった。

本宮前の小奇麗な食堂で昼食を済ませ、岐路に着く。途中、文武館があったという十津川高校に立ち寄ったが既に文武館は無く、 高校のグラウンド横に中沼了三先生の立派な碑が建っていた。幕末の頃、戸津川郷士の血気盛んな若者が尊皇攘夷、 勤皇の心に燃え立ち上がった旨が記されていたが、隠岐騒動(明治元年、松江藩の隠岐郡代を追放し、自治政権を行う。無血革命による隠岐維新) の思想背景ともなった中沼了三先生の凄さを改めて思い知らされた。

十津川高校を後に暫く走ると、玉置山12キロの看板が目に入った。エッ、12キロで玉置山、それならとUターンして玉置山へ、 ところがこれが大変、急勾配のS字カーブを延々30分、やっと駐車場についたが、玉置神社にはそこから未だ徒歩30分。しかし、 標高千メートル以上の玉置山に創建された玉置神社は霊気に包まれた幻想的な眺めであった。往復2時間を要した大変な寄り道であったが、 2時間で1年程命が伸びたかも・・・。

そんなこんなで帰宅したのは20時近くなっていた、20数年ぶりの楽しい二人旅であった。

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2006年10月24日

二人旅

■プライベートな話■

週末久し振りに小旅行に出かけた。しかも妻と二人である。団体旅行に二人で参加というのはあるが純粋に二人というのは記憶にない。 多分20数年前の新婚旅行以来では無かったかと思う。

土曜日の朝8時過ぎ、「そろそろ出かけようか・・」と妻に声を掛けると、「エッ、あれ本当だったの」との反応。 2人での旅行など計画もしたことが無かっただけに、事前に一言「週末に熊野へ行こうか・・」と声は掛けていたものの、半信半疑であった様だ。

考えていたのは奈良県天川村の龍泉寺をお参りし、 十津川村の文武館に行き、川湯温泉で1泊、 翌日本宮にお参りし、熊野古道を少し歩こうとの計画。 ただドライブを兼ねて1泊しただけで旅行という程の事ではないが、これが中々良かった。

天川村の龍泉寺、近畿36不動尊霊場巡りの一つとして立ち寄ったが思っていた以上に素晴らしく、 表現は悪いが面白いお寺であった。修験道のお寺であるが、怒りを露わにした不動明王が片目をつぶっていて何処と無く愛嬌があり、また、 ひょうきんな顔の狛犬の背中に子供が何匹も乗っかっていたりと、独特の味があった。また、 50回記念とか100回記念とかの碑が沢山あるのには驚いた。多分水ごりや滝行の回数を記念しての碑と思われるが・・。

十津川村の文武館。これは私の郷里、 隠岐の島の出身である中沼了三(文化13年生、国学者、明治天皇侍講) が孝明天皇の命により創立した文武館である。今回の一番の目的は、この文武館を観ることであった。 ところが十津川村の観光案内や観光掲示板を見てもサッパリ出てこない。 マー適当に走っていれば案内くらい有るだろうと思っていたがいっこうに見当たらない。途中みやげ物店に立ち寄って聞くが「知らない」という、 「中沼了三先生を知らないの・・」、”ほんとにモー”と云う心境である。暫く走ってGSで給油しながら尋ねると、 「今の十津川高校が昔し文武館と呼ばれていた」とのこと。やっと分かったが既にそこは通り過ぎていた。 結局帰りに立ち寄ることにして一路川湯温泉へとひた走る。十津川村は日本一大きな村と言われるだけあって走っても走っても十津川村である。 ところが、十津川の眺めが何とも素晴らしく、幾ら走っても苦にならない爽快なドライブであった。

川湯温泉着17時45分。可愛い女将の出迎えを受け、温泉にゆったりと浸り、美味しい料理に舌包みを打ち、「代は満足じゃ・・」 とご機嫌で部屋に帰り、日本シリーズの観戦に挑むやいなやどうも爆睡状態にはいたらしい、お目覚めは丑三つ時であった。

多忙につき明日に続く

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2006年10月05日

JDMと娘

■プライベートな話■

JDM(ジャパンデンタルミッション)というNPO法人がある。この法人は、 歯科医療をバヌアツ共和国及びフィリッピンのカオハガン島で提供している医療奉仕団体である。 JDMは私が所属する船場ロータリークラブの仲間である澤田宗久歯科医が代表を務めており、 バヌアツに年2?3回、カオハガンに年3?4回は行っている可也活動的な奉仕団で、1チーム10?15名で編成され、 20数年前から継続的に活動を続けている。

今回(9月16日から1週間)その医療奉仕団に娘(大学4年)がボランテイアで参加した。単純に、学生生活最後の思い出として・・ くらいの気持ちでの参加ではなかったかと思う。ところが帰国しての報告文(JDMに提出)を読むと、 娘の場合はボランテイアに行ったのではなく、大変な人生勉強に行った来たようである。

その報告書の一部を引用すると、「カオハガンは甲子園球場位の小さな島で、人口は450名内外。会社等というものはなく、 人々の生活は限りなく自給自足に近い原始的なものでした。それは「非文明」や「発展途上国」 といった言葉から想像していたどこか悲惨なイメージとは全く違い、とても穏かでそこに違う形の幸せがあるのを見せ付けられた気分でした。 ブランドの服を着ていなくても人々はとても生き生きとして美しく、子供たちはとても無邪気で、 名札を見て覚えた私の名前お見て連呼していました。道で会えば挨拶をしてくれ、椰子の実を割って分けてくれました。 休みの日にバイト先の上司に会うと挨拶すら億劫で、すぐ隠れてしまうような私とは違い、 とても純粋に人に対する興味を持ち続けている感じがしました。それは我々が「ストレス社会」 の中で引き換えにしてきた人間の根本的な美しさのような気がして、島での数日間はとても人と関わることが楽しく思えました。 幸福とは何だろう?ということを考えさせられた数日間だったと思います。幸せは自分の生活する世界と切り離しては考えられないため、 カオハガン島の幸せが私の幸せだとは思いません。それでも、学歴とか地位とか会社の規模という自分を飾る「箔」より以前に、 人間である我々が、その人間が持つ素晴らしさを失くしていくのはあまりに惜しい気がしました・・・。」、云々とあった。

「可愛い子には旅をさせよ」、そんな格言を思い出した。 

 

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2006年09月26日

近畿国賀会

■プライベートな話■

昨日24日(日曜)、近畿国賀会の第42回総会及び懇親会がホテル京阪京橋で開催された。昨年も書いたかと思うが、 この会は小生の出身地、島根県隠岐郡西ノ島町出身者の近畿地区在住者の親睦会である。所謂県人会の小型版であるが、 参加者は162名と中々の盛況であった。

毎年の事ながら郷里西ノ島町からは町長他町議会議長、商工会、観光協会、漁協など各種団体の偉いさんの多くが参加して下さる。 その上今年は、民謡「しげさ節」で日本一の栄冠に輝いた「しげさ会」のメンバーが来阪してくれ、素晴らしい隠岐民謡と踊りを披露してくれた。

懇親会は12時?15時までの3時間を予定していたが、それこそアッと云う間に終わった感じ。 懐かしく話をしたい人の顔がアチコチに見えるが、全般に気を使わなければならない主催者の立場としては一声掛けるのがやっとと云う感じで、 殆ど話すことも出来ず終わってしまった。

投稿者 ks110 : 17:29 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月02日

心身統一道(香里天風会)

■プライベートな話■

先週末の金・土・日と3日間、香里天風会の夏期特別研修会(修練会)が開催された。猛暑の中での3日間、 体力的には相当堪えるが精神的には清清しく、心身統一の為の充実した週末を過ごすことが出来た。

朝8時から夕方5時まで、ほぼ缶詰目状態でみっちりと行修する。私は今回で14回目、修練の内容は毎年同じもので、 決して特別な事をしたり、新たな事を付け加えたりはしない。ところが、感じ方は毎年違う。 不思議な事に体力的には年々きつくなっていると思うが、感じ方は全く逆で年々楽になり、今年などは「アレッもう終わったのか・・」 と云う感じであった。

参加者は50名弱、老若男女入りまじっており、上は90歳余から下は3歳の幼児まで。とは云っても3歳の子はただ道場を走り回り、 疲れると母親の横で指をチュチュしながら寝ているだけだが。

心身統一道というのは人生道であり、生きてる限り続けるもので終わりはない。これで良しと云う事もない。天風先生自身、 「統一道を一番熱心に遣っているのは私ではないか・・・」と、公言しておられたと言う。多分私も死ぬまで続けるんだろうな・・と感じている。

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2006年07月10日

天風会(香里天風会)

■プライベートな話■

先週は何かとバタバタしていてブログが書けなかった。誰も見ないブログとは思いながら週一は自らに課した義務と心得ており、 反省しきり。

昨年も触れたが7月は私にとって最も大切な月である。何故なら、私が「人生の指針」 とする心身統一道「夏季特別研修会(修錬会)」 が行われる月で有るが故。

毎年7月の最終週、金土日が香里天風会夏季特別研修会(修錬会) と決まっており、今年は7月28・29・30日と3日間の予定で実施される。天風会員にとってこの特別研修会(修錬会) は年間最大の行事であり、天風先生ご存命時も其れは変わらなかった。

天風先生のお言葉によれば・・・「特別研修会の目的は、 極めて僅かな短い間に自力でやっては一生かかってもおそらく体得することもできないさまざまな貴重な方法、 生まれ変わったように自己の生命を創り上げる方法をお教えし、またそれを理解して実行への正しい信念を創るというのがその目的であります。」 と云うことである

天風会の修錬会は、全国各地で行われているが、従来から夏の真っ盛り7月8月に実施されるのが通例であり、 炎天下での3日間の修行は中々である。ところが驚くなかれ、戦前は、2週間(14日間)の長丁場で有ったと聞く。従って、 先生のお言葉の通り、この修錬会で人生が一変し、生まれ変わったような新たな人生が開けた人が多くあったやに聞く。 所が世がせわしなくなるにつけ、徐々に短くせざるを得なくなり、今では長い所で4日、一般には3日の所が多くなっている。それでも、 3日間朝8時から夕方5時まで、缶詰状態で修錬すると自然気の入り方が違ってくる。不思議なものである・・・。

今年の香里天風会の修錬会は、東邦大学医学部教授・稲松信雄先生のご指導で実施される。私はその実行委員長を仰せつかっており、 この数週間毎日曜日はその準備に追われている。そして最大の関心事は、赤札と呼ばれる初参加者が何人来てくれるかということである。正直、 ここ数年間はその意味ではふるわず悩みの種で有ったが、今年は出足順調で、初参加の人が少なくとも6・ 7人は居そうでホッとしているところである。

もし、ご興味のある方がおられましたらご一報下さい。連絡先は06-6313-0110 (企業サービス内松谷まで)。

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2006年06月09日

隠岐国観光大使

■プライベートな話■

本日11:30?13:30の予定で、中津のラマダホテル大阪16Fにて、隠岐観光大使「ござんせ」 任命式があった。

先週末に突然、隠岐ノ島町役場から電話があり、「6月9日に観光大使の任命式を行うので是非出席して欲しい」とのこと。正直、エッ・・ という感じ。大使なるものを引き受けたという覚えはない・・。ただ、関西隠岐人会の筆頭副会長を務めている事からして断る訳にはいかない、 と自分なりに即断。「出来るだけ都合をつけて参加します」と返事した。

ところが本日会場に行ってみると、関西地区での観光大使は僅か10名である。大使の選定基準が如何なるものであったかは知らないが、 仕事は隠岐の宣伝である、一人でも多くの方に隠岐観光に来てもらいたいという事に他ならない。であれば、 50人でも100人でも出来るだけ多くの方に大使になって貰ったら・・、と疑問に思ったが、役所は役所なりの考え方があるのだと思い、 素直に任命式に望んだ。

任命式では、隠岐の島町長から、隠岐杉で作られた額入りの隠岐国観光大使之証を頂いた。その証には、「一.隠岐国を愛する。一. 隠岐国の魅力を伝える。一.隠岐国へ多くの人々を導く、 右旨相心得べき事の証也  島根県隠岐観光協会会長」 と彫られている。その上に、 500枚の大使の名刺である。

そして、大使のノルマは一人100名を隠岐の島に連れて来ること、という。何とも厳しいノルマである。我が社の5倍位のノルマである。 しかも無給である。

しかし、よくよく考えてみると、それだけ隠岐の観光も厳しいという事なのだ。特に今年は、 隠岐の島にジェット機が就航する年である。 ジェットの就航期間は7月6日?8月末までの僅か2ケ月弱であるが、この間乗客率が70% を切ると来年からは就航しなくなる。それだけに島民皆が必死である。

観光大使としては、「明日からは仕事度外視で隠岐の宣伝に努めなければ・・」との思いである。 このブログを目にした方は万難を廃して隠岐観光、帰郷でのジェット機利用を考えてください・・・。そして、私に一報下さい。 すると大使の名刺をお渡しします、この名刺は葵の印籠の如き力があり、観光協会にその名刺を渡すと、 隠岐でのあらゆるものが割安にて利用できる、というものである。何が何でも一報下さい。

今週、日月は1泊で中学同期のゴルフコンを楽しんだ。そして、今度の日曜は近畿国賀会(隠岐の島出郷者の会)の理事会である。 6月はどうも隠岐づくしの月になりそうだ・・・。

 

 

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2006年04月11日

隠岐の島にジェット機就航

■プライベートな話■

私の出身地、隠岐の島に今年7月よりジェット機が就航する。

今まではプロペラ機しか飛べなかったが1,500メートル滑走路を2,000メートルに延長、小型ジェット機が就航できる飛行場になった。 但し、就航するのは7月?8月の2ケ月弱で夏期シーズンだけである。 しかも乗客率が予定数に満たなければ今年でジェット機就航は中止となる公算が大いという。

従って、隠岐の島は大変である。目標の乗客数を確保しないと、折角のジェット化が無駄になってしまう。そこで町や観光協会は勿論、 島民皆が乗客確保に必死になっているという。

そんな関係で私の所にも、ジェット機就航を宣伝せよとのことらしく、広告用のマグネットシールが送られてきた。 長さ50センチ幅15センチ程のマグネットシールに「隠岐ジェット機就航」の文字と「小型ジェット機」が描かれたものである。多分、 車に張って走れという事らしい。ムム・・、一寸引くものがある。しかし、隠岐の島出身者としてはそうも言っておれない。どうしたものか? と少し複雑な気持ちでそのシールをほっていた。ところがある夜、ほろ酔い機嫌で我が家に帰ると、 何とそのマグネットシールが目前に飛び込んで来た。何と我が家の門の鉄扉に「隠岐ジェット機就航」のシールが貼り付けてある。ウム・・、 女房も中々やるな・・・。少し気後れしていた自分が恥ずかしくなった。週一くらいしか車には乗らないが、今度乗る時は、 鉄扉に張られたシールを車に張り替えて走ることにしよう・・。

それにしても、ジェット化に幾らの金がかかったことか?。目標乗客数に達しなければ来年は飛ばさない・・、それって本当。 余りにも露骨過ぎないか・・・。ジェット化の目的が島民の意図と違う所にあるのは明らかなようである。

しかし、それはそれとしてジェット化は島民にも観光客にもとても便利である。何とか目標を達し、来年も飛んで欲しいものだ。

http://www.page.sannet.ne.jp/nobumi-saito/kankou/kankou.html

http://www.town.okinoshima.shimane.jp/index.php?module=Info&action=Info&info_cd=718f3d152145757066ef70d11fcba4d2&proc=1&PHPSESSID=7daf9fa8d843708ae0f415bfb81df530

 

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2006年03月28日

日本地雷処理を支援する会(JMAS)

■プライベートな話■

昨日自宅に帰ると、「JMAS便り」が届いていた。 早速目を通すと、40年来の友である高山良二(JMAS理事)の記事が目に飛び込んできた。

写真パネル展開催(愛媛支部)「オヤジたちの国際貢献ーカンボジア地雷・不発弾処理活動 写真パネル展」 高山理事による講演「カンボジアの今」を開催した、と云うものである。結果は、 県知事をはじめ1,870名の来場があり、大成功であった様子が綴られていて、我がことの様に嬉しく思った。

そこで、少し彼(高山)のことと「日本地雷処理を支援する会」 (JMAS)の事を書いて見たいと思う。

高山と私は自衛隊の同期であり、共に夜間大学に学んだ学友でもある。私は大学卒業と同時に自衛隊も除隊し、民間企業に就職、 調査の道に入ったが、彼はそのまま自衛隊に残り幹部となった。54歳の退官時には二等陸佐(昔の中佐)に昇進していた。 その彼が退官と同時に奔走したのがカンボジアの不発弾と地雷処理の仕事である。所謂、 「日本地雷処理を支援する会」(JMAS)の立ち上げである。自衛隊OBを中心とした全くのボランテイア活動であるが、 多くの賛同者と支援者を得て会の立ち上げに成功。以来、カンボジアに単身赴任し、現地スタッフと一緒になって不発弾処理に奔走、 今年2月現在で70.593発の不発弾を処理をしたという。

その彼が、2週間ほど前に突然電話をかけて来た。「今カンボジアから帰ってきた・・・・」と。用件は私的なことであったが、 その後彼が言うには、今年7月下旬頃から旧ポルポト政権の支配地域に一人入り、現地住民を使っての地雷と不発弾処理を計画しており、 ポルポト幹部との交渉を済ませ、その準備の為に帰って来たとの事であった。よくよく話を聞いてみると、治安もさることながら自然環境 (衛生問題等)も想像を絶するものようである。しかし、彼はそんな事は全く意に介していない様子で、 喜々とした弾んだ声でしゃべりまくっていた。とにかく頭が下がる思いである・・・。

私が今できるのは、JMASの会員として僅かばかりの資金援助をするくらいの事でしかないが、 地道な国際貢献に命をかける彼の姿に多くの事を学ばせて貰っている。

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2006年03月22日

我が母校 隠岐島前高等学校

■プライベートな話■

昨日(21日、祭日)ゴルフを楽しみ帰宅すると、我が母校・隠岐島前高校から郵便物が届いていた。早速開封してみると、 何と隠岐島前高等学校創立五十年史であった。今は跡形も無くなった古い木造校舎や通学船 (離島故の船通学)の写真、恩師や懐かしい同級生の言葉などが盛り沢山つづられており、 何とも楽しかった青春の一コマ一コマが走馬灯の様に甦って来た。寝床についてからもその五十年史が離せず、 結局寝ついたのは1時を過ぎていた。

私が卒業したのは昭和41年3月、隠岐島前高等学校の1期生である。同校の創立は昭和30年であるが、 当初は隠岐高校の夜間分校として開校され、同33年には日本最初の全日制分校となった学校である。

隠岐ノ島は本土から約60キロの日本海に浮かぶ離島であり、大きく島前・島後の2つに分けられるが、この島前・ 島後の間でも船で1時間以上を要した為通学は不可能。当時高校は島に2校(隠岐高校と隠岐水産高校)あったが何れも島後にあり、 島前の子供は本土の学校(松江)か島後の学校に進むしかなかったが何れも親元を離れての下宿生活を余儀なくされた。その為、 島前地区の人に取って高校誘致は長年の悲願であった。 その為に一方ならぬ努力をしたのが初代の分校主事を務めた室崎美繁先生である。 とにかく何が何でも島前に高校を、と岩をも砕く信念で、県や文部省に足を運んだと聞く。その努力が実っての50年である。 室崎先生は数年前に亡くなられたが、さぞこの50年史をみたかったのでは・・・。

 

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2006年02月28日

熟年離婚

■プライベートな話■

最近よく熟年離婚という言葉を聞く。 長年連れ添った夫婦が定年を迎える60歳前後に突然離婚するケースが急増しており、20年以上同居していた夫婦の離婚を 「熟年離婚」と定義しているらしい。

マスコミ報道によると、ここ10年で熟年離婚が2倍に増え、離婚の全体比でも2倍、 同居30年以上に限ってみると何と3倍に増えているという。

しかも、離婚の申し出は圧倒的に妻側からが多いという。世の亭主族は、額に汗して妻子の為にとセッセと働き、やっと定年を迎え、 「少しのんびりと」と思った途端に、妻から離婚届をつけ付けられるという事らしい。

夫婦関係は百人百様で、離婚の形も一概に言えるものはないと思うが、理由がハッキリしないまま長年連れ添った妻に、 ある日突然離婚届けを付きつけられる男の心境たるや、如何に・・・。

ところが私の友人にこんな夫婦が居る。後2年で60歳を迎える夫婦だが、この夫婦には子供が居ない。一般に子供が居ない夫婦は、 非常に仲良く見えるカップルが多いが、この二人もその例に漏れず、傍目にはとても仲睦まじくみえる。ところがこの夫婦、 60歳になったら離婚しようと二人で決めているという。どう云う事なのかよく判らないがそう決めたという。

その話を聞いて、一寸考えさせられた。決して仲が悪い訳ではない、経済的に苦しい訳でもない、愛がない訳でもなさそう、 所謂夫婦関係が破綻している訳でない。だからニコニコしてお互いが離婚を話し合い、納得したということらしい。どうも、 60歳で定年を迎えたらお互いが全く新たな出発をしようと云うことらしい・・。煩わしい干渉から一切離れ、 真に自分の人生を生きてみようと云うことのようだ。

お互い納得の上ならそれも良いだろうが・・、「そんなものでは無いでしょうが・・」と云いたいような気もする。 何れにしても一寸考えさせられる話であった。

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2006年02月22日

スキー同好会

■プライベートな話■

所属する大阪船場ロータリークラブの中に親睦を目的とした各種同好会があり、その一つにスキー同好会と云うのがある。 この同好会は10名前後で年に1度、日本各地のスキー場に出向く事にしている。昨年は、 秋田の田沢湖スキー場であったが今年は北海道のニセコに行くことなり、先週末から3泊4日でスキーを楽しんできた。ところが、帰ると直ぐに、 事務局から「松谷さん、週報にスキー同好会の報告を書いて・・」とのメール。来週の週報に載せるとの事で急ぎ、以下の報告書を書いた。 そこで、今週のブログは手抜きをして、その報告書を添付することとする。

 

今年のスキー同好会は、かの有名なニセコスキー場。217日から23日組と34日組の変則スケジュールにて実施。 ○○会長の海外スキー仲間(おじんとギャルの不思議な組み合わせ)に我が同好会が合流する形となり、 総勢24名の大所帯となった。 船場RCからは○○、○○、松谷夫妻の他、OBの○○ご夫妻とお姉さんの12名が参加。 夜も明けやらぬ早朝に伊丹集合、JAL2001便にて空路千歳へ。 北海道上空にさしかかるや眼下は一面の銀世界、北海道全土が雪に覆われている。当たり前のことながら一寸した感動を覚える。 無事千歳着、バスにて支笏湖を右手に眺めながら一路ニセコへ。私の後ろに座した○○さん(弁護士)がガイド役を務めてくれる、 毒舌混じりガイド故に中々味わい深いものであった。13 30ニセコスキー場着、 早速スキーウエアーに着替えてゲレンデに集合。○○会長の指揮の下、一挙にゴンドラでヒラフの中腹に降り立つ。 11回の初級スキーヤーに取っては足がすくむ思いの中、 寒暖計を眺めると、何とマイナス17度。 武者震いか寒さゆえか振るえが止まらない、そんな状況を知ってか知らずか○○指揮官曰く「松ちゃん、 この下国体コースだから気をつけてナ・・・」、言うが早いか雪小僧のごとく何処かえ消えてしまった。 後に残されし我ら初心者集団は、寒さと不安に震えつつ指揮官なしで思いおもいの滑降に入った。しかし、 余りの寒さに2時間ともたずダウン。 夜は7時半からニセコ銀座のすし屋にて作戦会議。 夜の作戦会議は何といっても○○大将が指揮官。20名からの大所帯ゆえに中々作戦はまとまらない。 それに嫌気がさしたのか指揮官の大将、隣のテーブルに居た10名程の外人部隊 (オーストラリア人)にちょっかいを出し始めた。最初の一言二言は英語らしき単語が聞こえたが、 後はボデイーアクションと感嘆詞のオーのみである。ところが結構な盛り上がり、その内に○○中将と○○参謀が加わり、 ロータリー精神よろしく大変な国際親善と相成った。

 

18日は少し寒さは和らいだが、 それでもゲレンデ中腹の寒暖計でマイナス12度。 そこから未だ上に2つのリフトを乗り継いで上るため、多分頂上付近はマイナス15度は越えていたものと思われるが、 そんな寒さの中でもスキーとなると別。皆が幼少に帰ったのかの如く嬉々として、滑っては昇り滑っては昇りを繰り返す。 誰が考えたのか知らないが下手はへたなりに何とも楽しいスポーツである。当日の夜は、OBの○○さんご夫妻とお姉さんが合流し、 石狩鍋と蟹鍋に舌鼓をうちながら大いに親睦を深めたのであった。

 

19日は、 天候も回復基調。ひにくな事に23日組みが帰路についた午後3時過ぎ、 一挙に暗雲が消え、北海道富士と呼ばれる羊蹄山が目前に広がった。それはそれは筆舌に尽くしがたい見事な眺めであった。 道産子曰く、「2月にこれほど見事に羊蹄山が見えるのは珍しい」 とのこと。そして、翌20日は、 それにも増しての見事な晴天で、羊蹄山を眺めながらの滑降はニセコならではの素晴らしいものであった。

 

 

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2006年01月31日

香里天風会

■プライベートな話■

天風会の事は以前にも何回かこのブログで紹介したが、パソコンで「天風会、中村天風、心身統一法、天風哲学」 などで検索すると、相当詳しく紹介されているので、ご興味のある方はそちらを見て頂く事として、 ここでは私が所属する「香里天風会」について少し書いてみたいと思う。

香里天風会は、京阪「香里園」駅で下車、改札を出て東へ歩くと、少しひなびた商店街に出る、その坂を少し上った右手に、昔乍の 「藤田内科医院」(休診中)と書かれた看板が目に入る。その、医院の2階が「香里天風会」の道場である。 駅から徒歩5分の利便な所にあり、しかも自前の道場である。天風会の支部道場は全国各地にあり、多くの熱心な会員が毎日曜日、 心身統一法の行修を行っているが、自前で道場を持ち、誰にはばかる事無く素足に短パンひとつで行修が出来るのは、ここ香里だけである。 藤田邸の敷地は600坪からあり、医院の裏に本宅がある。その前が和洋折衷のお庭になっており、 芝生の庭が我が香里天風会の戸外修錬場である。夏に行われる修錬会(夏季特別研修会)には全国各地の熱心な会員が馳せ参じてくれるが、 誰もが先ず最初に口にするのは「香里は良いなー」である。これは偏に藤田先生(91歳) のありがたいお志に寄るものだが、本当に恵まれた環境にある。それゆえにではあるが、今年の冬は相当応える・・。何が・・・ とお思いの方に少し説明をすると、

心身統一法の戸外修錬(プラナヤマ呼吸、呼吸操錬、統一式運動、平和運動(積極体操)、駆け足、 光線呼吸等々)は、基本的に男性は素足に短パンひとつで行う。ところが、 昔はともかく最近は素足に短パンひとつは異様で世間が煩い。そこで、自前の道場を持たない各支部は、運動靴、短パン、 半そでシャツに鉢巻というのが一般的な服装となっている。ところが、香里は塀囲いされた私邸の庭が運動場である。 そのため世間体など全く関係ない。そこで創設以来35年間、何一つ変える事無く、天風先生ご存命当事と同じスタイルで行っている。従って、 真冬でも元気の良い男は、素足に短パンひとつに鉢巻姿で、約1時間戸外での行修を行う。ゆえに今年の冬は相当応える・・となる。 足は5分もすると全く感覚がなくなる、ところが終わりごろにはポッポッとしてくるから不思議である。

一昨日の日曜は香里天風会の新年会であった。朝9時?10時は何時もの戸外修錬、 その後通常は道場で養動法安定打坐(天風式坐禅)、誦句となるが、 新年会の特別企画で2時間の講話があった。講師は、山本紹之助先生(83歳)にお願いした。 先生は18歳で天風先生に師事し、以来65年間心身統一法を基本に人生を歩んできた人である。 天風道を我が物とした実践に基ずくお話だけに言葉の一つひとつに重みがあり、何時もながら非常に勉強になるありがたいお話であった。

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2006年01月19日

直木賞 東野圭吾

■プライベートな話■

東野圭吾が直木賞。寝ぼけまなこでテレビをつけると「東野圭吾が直木賞受賞」と報じている。エッ・・、今頃何を・・・。 私の頭の中では、「東野圭吾」と言えば、押しも押されもせぬベストセラー作家。直木賞などはとっくの昔に受賞していて、 既に選考委員に名を連ねているのでは、と思っていたくらいだから正直ビックリした。と同時に直木賞てすごいんだなーと。 何れにしても目出度いニュースであった。ライブドアの強制捜査にも驚いたが、同じ驚きでも中味は大違い。 東野圭吾に一時期はまっていた私には久々に聞く、明るく楽しいニュースであった。

何時も思うことだが、マスコミのマイナス思考というか、 余り聞きたくも無い暗い事件や事故のニュースを第一優先に報じる姿勢は何とかならないものかと。例えば、少なくとも朝一番のニュースは、 昨日のように「東野圭吾が直木賞受賞」などと、どんなことでもいいから明るく楽しいニュースからスタートすると