我とは何ぞや
天風会の講師養成研修を受講している関係で、 天風哲学と心身統一法に関するレポート提出のご下命が度々ある。 その中、何とも難しい問題が出た・・・。「人生は一回限り」されど 「霊魂は不滅」のテーゼについて1200字内外にまとめ提出せよと云う。正直、 この命題に確信を持ってレポートが書けたら悩むと云うようなことはなくなるかも知れないが・・・。
レポート提出は義務であり、判らないなりに自分が普段考えている事をまとめて提出する事にした。 今日はその訳の分からないレポートを添付させて頂きます。どなたかご意見を頂ければ有りがたいです。
「人生は一回限り」されど 「霊魂は不滅」 松谷 廣信
「人生は一回限り」、 所謂、この世に生を受け、この肉体とこの心を持っての我が人生は1回限り、 2度とは無い。例え輪廻転生を信じ、再びこの世に、人として生まれる事が出来ても、自覚の上では、 この肉体とこの心を持った私ではない。この身この心を持った私の人生は誰が何といおうと1回限りである。従って、 人生は取り返しはつかない。この世に生まれた以上、絶対に生まれがいの有る人生に活きなければ嘘である。 ところが真我、本当の我は不滅であると天風先生は言う。 そして、信念的自覚念で 「我とは何ぞや」が判れば、 「肉の呵責も、 人の世の非業も夢幻の如く消え失せて、無限至上なる歓天喜地の世界現れん」とおっしゃっている。
所謂、「霊魂不滅」。これは教えられて分かるものではなく 「悟り」の世界であり、 我とは何ぞや、真の我は「霊魂」なり、 と云うことを理論的に説明することは私にはとうていできないが「霊魂は不滅」と云うテーゼは、 多分そうで有ろうと自分なりに理解はできる。
無から有はなく、有は無にならない、と同様で、 この世に生を受ける前の自分があったことは否定できない。それを「霊」というか「気」と云うかは別にして、何かがあった事は否定できない。 デカルトは「我思う故に我あり」と説いたが、全くその通りで、全てを否定しても思っている自分を否定することは出来ない。 この物質界にある全てを仮想とし、一現象に過ぎないとして否定することは出来ても、 その事物事象を知覚し思考している自分を否定することは出来ない。その事と同様に、我のこの肉体が滅んでも、生まれる前の我(真我) に帰るだけで、物質としての肉体はなくなるが真の我(霊魂)は無くなることはない。姿形あるものは変化し消滅する事はあっても、 元々姿かたちのないものは多分100%消えると云うことはないのでは、一旦した思考は無には成らないし、 一旦出した音声も完全な無にはならい。真我といわれる霊魂も姿かたちのないもので無にはならない。ただ、こうした理論は、 自分なりの理論のための理論であり、何の意味もなさない様に思う。
「我とは何ぞや」、真正の自己(真我) を正しく信念する自覚意識(信念的自覚念)を確立するには、 心を修練して常に霊的境地にその心を置くことによる外はないと先生は説かれており、その為に、人生に対する特定の意識観念を確立する (真我は肉体という仮衣を着ているなどの思量)ことが必要となる。その事が心を霊的境地におく準備過程となるので、 少なくともこの事を信念化し、安定打坐をことあるごとに行う事により、 「自我本質の自覚」 に目覚め、表題のテーゼにキチッとした説明、レポートが書けるような自分になるため努力いたします。
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