仕事と休み
またまた3連休。しかも先週は週中から東京へ出張していた為今日の出社は1週間ぶり。その為か何となく調子の乗りが悪い。 連休と云うのは休んでいる時は良いが、仕事になると余り良い感じはしない。
昔は、「休みに鋭気を養い、その鋭気で1週間仕事をする」 と云う考え方が普通で、週末になると先輩から「鋭気を養って来い」と叱咤されたものである。 ところが最近は休みにフルに鋭気を使い、仕事になるとフラフラと云う人が多くなっている。
週休2日はまだしも3日となると、翌日は調子が悪く、調子が出てきた頃には次の休みに成っている、と云った感じで、 仕事の為に休むのか休むために仕事をするのか判らなくなっている。 私ら団塊世代に取っては余り休みが多いと何となく体調がおかしくなる感じである。
それでも最近は段々休みの使い方が上手になり、結構充実している。この3連休も土曜は樟蔭女子大の日本文化塾に参加、 【筑前琵琶】
で楽しませてもらった。で、翌日曜は天風会の日曜行修、月曜は天風会の講師研修で終日すごし、内容のある充実した3日間であった。
Posted on : 2009年11月24日 | コメント (0) | トラックバック (0)
真人塾
今日夜6時半から、「真人塾」と云う異業種の集まりでスピーカー役を務め2時間ほど喋らなければならない。
この真人塾と云うのは、 2代目ながら倒産も危ぶまれた赤字企業を見事再生させ、昨年末に大阪2部に上場を果たした辣腕社長が代表(塾長)を務める人生塾である。 命名の由来は知らないが、多分読んで字のごとくで、「我、 真人たらん」との思いからではなかろうか?。ただ、今、このブログを書きながらひらめいた。 多分この方が正解かも、天風先生の著書、「真人生の探求」から来たのでは・・・。
私はこの会には今年聴講生として2・3回出席しただけで、未だ塾長の話も聞いた事はないが、塾長は天風会の熱心な会員で、 天風先生の教えを忠実に実行し、結果、死に体の会社を2部上場するまでに再興した人と聞いている。
そうした関係で自然と天風会関係の人が多く集まっており、私の知人も何人か参加している。塾は月一の開催で、 塾長の会社の会議室を会場とし2・30名が集まる。スピーカ役を務めるのは、塾生の中からであったり外部の人に要請したりであったり、 と一定はしないが、演題を設け約1時間話し、その後1時間はスピーカー役を中心に質疑応答を行い、お互いを高めようとするものである。
そのスピーカー役を今日務める事となっているが、正直未だ何を話そうか確定はしていない。演題は「私なりの天風道」としており、基本的には、「日頃思っている事、 している事」をただ普通に話すつもりだが、それだけでは参加している方が納得はしまい。 人に話すほどの成功体験もなければ苦労話も持ち合わせていない私にとっては、このスピーカー役は少し重荷である。しかし、この塾の考え方は 「話すことによって自分を高めよう」と云うものであり、その考えに大いに共鳴する私だけに、声がかかった以上断るわけにもいかなかった。 今日は、何よりも自分の為の勉強と思って頑張ってみようと思う。
Posted on : 2009年11月17日 | コメント (0) | トラックバック (0)
我とは何ぞや
天風会の講師養成研修を受講している関係で、 天風哲学と心身統一法に関するレポート提出のご下命が度々ある。 その中、何とも難しい問題が出た・・・。「人生は一回限り」されど 「霊魂は不滅」のテーゼについて1200字内外にまとめ提出せよと云う。正直、 この命題に確信を持ってレポートが書けたら悩むと云うようなことはなくなるかも知れないが・・・。
レポート提出は義務であり、判らないなりに自分が普段考えている事をまとめて提出する事にした。 今日はその訳の分からないレポートを添付させて頂きます。どなたかご意見を頂ければ有りがたいです。
「人生は一回限り」されど 「霊魂は不滅」 松谷 廣信
「人生は一回限り」、 所謂、この世に生を受け、この肉体とこの心を持っての我が人生は1回限り、 2度とは無い。例え輪廻転生を信じ、再びこの世に、人として生まれる事が出来ても、自覚の上では、 この肉体とこの心を持った私ではない。この身この心を持った私の人生は誰が何といおうと1回限りである。従って、 人生は取り返しはつかない。この世に生まれた以上、絶対に生まれがいの有る人生に活きなければ嘘である。 ところが真我、本当の我は不滅であると天風先生は言う。 そして、信念的自覚念で 「我とは何ぞや」が判れば、 「肉の呵責も、 人の世の非業も夢幻の如く消え失せて、無限至上なる歓天喜地の世界現れん」とおっしゃっている。
所謂、「霊魂不滅」。これは教えられて分かるものではなく 「悟り」の世界であり、 我とは何ぞや、真の我は「霊魂」なり、 と云うことを理論的に説明することは私にはとうていできないが「霊魂は不滅」と云うテーゼは、 多分そうで有ろうと自分なりに理解はできる。
無から有はなく、有は無にならない、と同様で、 この世に生を受ける前の自分があったことは否定できない。それを「霊」というか「気」と云うかは別にして、何かがあった事は否定できない。 デカルトは「我思う故に我あり」と説いたが、全くその通りで、全てを否定しても思っている自分を否定することは出来ない。 この物質界にある全てを仮想とし、一現象に過ぎないとして否定することは出来ても、 その事物事象を知覚し思考している自分を否定することは出来ない。その事と同様に、我のこの肉体が滅んでも、生まれる前の我(真我) に帰るだけで、物質としての肉体はなくなるが真の我(霊魂)は無くなることはない。姿形あるものは変化し消滅する事はあっても、 元々姿かたちのないものは多分100%消えると云うことはないのでは、一旦した思考は無には成らないし、 一旦出した音声も完全な無にはならい。真我といわれる霊魂も姿かたちのないもので無にはならない。ただ、こうした理論は、 自分なりの理論のための理論であり、何の意味もなさない様に思う。
「我とは何ぞや」、真正の自己(真我) を正しく信念する自覚意識(信念的自覚念)を確立するには、 心を修練して常に霊的境地にその心を置くことによる外はないと先生は説かれており、その為に、人生に対する特定の意識観念を確立する (真我は肉体という仮衣を着ているなどの思量)ことが必要となる。その事が心を霊的境地におく準備過程となるので、 少なくともこの事を信念化し、安定打坐をことあるごとに行う事により、 「自我本質の自覚」 に目覚め、表題のテーゼにキチッとした説明、レポートが書けるような自分になるため努力いたします。
Posted on : 2009年11月13日 | コメント (0) | トラックバック (0)
日本文化塾(講談)
31日の土曜日、大阪樟蔭女子大学主催の日本文化塾秋季講座に参加。講演は長谷川計先生、実演は旭堂南海先生(講談師)。
私は前回(語り芝居)に続き2回目の受講。前回もそうであったが大満足、話芸の素晴らしさを堪能させて貰った。
「講釈師(講談師)、観てきたような嘘を云い」などと云われ、私の仕事(興信所)も、それに準えて、「興信所、 観てきたような嘘を書き」などと揶揄されるが、何と云われようと良いものは良い。人間が古くなって来たせいなのかどうか分からないが、 最近何となく古いものが良く思われるようになって仕方がない。
長谷川計先生の講演。前回に続き2回目であるが、淡々としたした喋りの中に軽妙な笑いを交え、 それでいてキチッと筋道がたち、話に起承転結がある。先生の話振りも芸の一つでは、と思えるほどであった。また、旭堂南海先生の実演 「木村重成の最期」、尺台を張り扇で叩きながら七五調で立て板に水の如く話を進めて行く。映像で観るよりもその場面がよく分かるほど。 決して大声を出す訳でなく、寧ろ眠気が来るくらいに静かな喋りであるが、自然と引き込まれるものであった。
昔は、続き物で一つの講談を何回かに分け、「今日はここまで」方式で何日か続けて演じていたという。 仕事を終えた町衆が一風呂浴びて一汁一采の晩飯を終え、それから昨日の続きと講談を聴きに行ったらしい。そんな時代に生きてみたかった感じ・ ・・・。
Posted on : 2009年11月02日 | コメント (0) | トラックバック (0)





